どーも、おがわです。
明治初期に西洋諸国に日本を含む東洋の思想文化のすばらしさを知らしめるために、
岡倉天心が書いた「茶の本」
今回は第七章「茶の宗匠」について、まとめていきますね。
茶の本の最後の章は、茶の匠の生きざまと彼らが日本文化や生活様式に与えた影響について書かれています。
そして、茶の本は、一番有名な茶の匠である千利休の死にざまを紹介して締めくくられています。
ではでは
茶の本 第七章「茶の宗匠」
茶の匠とはただお茶を入れるだけではなく、高い理想を掲げて、自分を律して生活を送っていました。
茶の匠は自分自身が芸術になろうとした。
茶の匠たちは、茶室において得た風流の高い軌範によって、日常生活を律しようと努めました。
例えば
●いつでも心を平静に保つ。
●談話は周囲の調和を決して乱さないように行う。
●着物の格好や色彩、身体の均衡や歩行の様子などすべてが芸術的人格の表現であるようにする。
茶人は芸術以上の自分自身が芸術そのものとなろうとしたと天心は言います。
「人はおのれを美しくして始めて美に近づく権利が生まれる。」
というのも厳しい過ぎる気もしますが、確かに茶道をしている人は、みんなピッと綺麗な身なりをしているイメージがあります。
天心は茶道のことをこのように言います。
禅には生活すべてが修行という考えがあります。
茶道も同様で、茶室を離れたとしても、茶の匠は生活の中で「美」を体現した存在でなければならない。
その域に達すれば、茶人=芸術と言えるのだと思います。
「祖元禅師の言葉に『行住坐臥一切の時勢これ最善の道場』というのがあります。
この言葉を私は座右の銘として拳々服膺し、常に忘れぬよう心掛けているつもりです。
少なくとも合気道に志を立てる者は、そうあってもらいたいと思います。
ただ歩いているときでも、電車に揺られているときでも、
食事をしているときでも、どんな場合でも、そこがすべて合気道の道場だと思い、
一挙手一投足、みな稽古の一つと考えてほしいものです。」
(塩田剛三著「合気道人生」竹内書店新社より)
茶人の芸術への影響
茶の匠は、日本の芸術のあらゆる分野の発展に貢献しています。
建築・庭園・陶器・織物・漆器・絵画・華道などなど・・・
そういう意味では茶道は、日本文化の根本的な部分をになっているのかもしれません。
しかし、茶人が「芸術」に与えた影響は、日本人の「国民生活」に与えた影響に比べたら大したことはないと天心は言います。
茶人の国民生活への影響
確かに茶人は芸術界に多大な影響を与えました。
しかし、それは茶人が国民生活に与えた影響に比べれば、大したことはありません。
【茶人が国民生活に与えた影響】
・上流社会の慣例
・家庭の些事の整理
・料理の配膳法
・料理の美味の膳部
・衣服の着用(落ち着いた色の衣服を着る事)
・生花に接する正しい精神
・人間は簡素を愛する精神
・人情の美しさ
天心はこのように言っています。
日本において、茶道は茶室の中だけのものではなく、国民の生活の中で実践されているものなのです。
茶人の死 ~千利休の死にざま~
茶の本の最後にて、天心は茶人の「死」について書いています。
美を友とした茶人の麗しい往生の代表的な例として、千利休の死にざまのエピソード(最後の茶の湯)を紹介しています。
①媚びない利休は秀吉とよく意見対立をした。
【原文】
利休と太閤秀吉との友誼は長いものであって、この偉大な武人が茶の宗匠を尊重したことも非常なものであった。
しかし暴君の友誼はいつも危険な光栄である。
その時代は不信にみちた時代であって、人は近親の者さえも信頼しなかった。
利休は媚びへつらう佞人ではなかったから、恐ろしい彼の後援者と議論して、しばしば意見を異にするをもはばからなかった。
②利休は嘘の噂により秀吉から切腹を命じられる。
【原文】
太閤と利休の間にしばらく冷ややかな感情のあったのを幸いに、利休を憎む者どもは利休がその暴君を毒害しようとする 一味の連累であると言った。
宗匠のたてる一碗の緑色飲料とともに、命にかかわる毒薬が盛られることになっているということが、ひそかに秀吉の 耳にはいった。
秀吉においては、嫌疑があるというだけでも即時死刑にする充分な理由であった、そしてその怒れる支配者の意に従う よりほかに哀訴の道もなかったのである。
死刑囚にただ一つの特権が許された、すなわち自害するという光栄である。
③利休は切腹する日に最後の茶会をひらく。
【原文】
利休が自己犠牲をすることに定められた日に、彼はおもなる門人を最後の茶の湯に招いた。
客は悲しげに定刻待合に集まった。
庭径をながむれば樹木も 戦慄するように思われ、木の葉のさらさらとそよぐ音にも、家なき亡者の私語が聞こえる。
地獄の門前にいるまじめくさった番兵のように、灰色の燈籠が立っている。
珍香の香が一時に茶室から浮動して来る。
それは客にはいれとつげる招きである。
④茶会がすすみ、最後に利休は自分の茶碗を割る。
【原文】
一人ずつ進み出ておのおのその席につく。
床の間には掛け物がかかっている、それは昔ある僧の手になった不思議な書であって浮世のはかなさをかいたものである。
火鉢にかかって沸いている茶釜の音には、ゆく夏を惜しみ悲痛な思いを鳴いている 蟬 の声がする。
やがて主人が室に入る。
おのおの順次に茶をすすめられ、順次に黙々としてこれを飲みほして、最後に主人が飲む。
定式に従って、主賓がそこでお茶器拝見を願う。
利休は例の掛け物とともにいろいろな品を客の前におく。
皆の者がその美しさをたたえて後、利休はその器を一つずつ一座の者へ形見として贈る。
茶わんのみは自分でとっておく。
と言ってかれはこれをなげうって粉砕する。
⑤利休の穏やかな最後
【原文】
その式は終わった、客は涙をおさえかね、最後の訣別をして室を出て行く。
彼に最も親密な者がただ一人、あとに残って最期を見届けてくれるようにと頼まれる。
そこで利休は茶会の服を脱いで、だいじにたたんで畳の上におく、それでその時まで隠れていた清浄無垢な白い死に装束 があらわれる。
彼は短剣の輝く刀身を恍惚とながめて、次の絶唱を詠む。
笑みを顔にうかべながら、利休は冥土へ行ったのであった。
本当に利休の最後は穏やかだったのか??
茶の本では、利休は生への執着を捨てた茶人として、穏やかな最後だっと書かれています。
しかし、本当はどうだったのかは、議論が分かれるところです。
利休の辞世の句である
「人生七十 力囲希咄 吾が這の宝剣 祖仏共に殺す」
は現代語訳するとこのような激しい意味の句になります。
こんな激しい句を残した利休は本当に、穏やかの笑みを浮かべながら、冥途にいったのでしょうか?
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