内村鑑三「代表的日本人」とは?日本とキリスト教に生涯をささげた男の人生

内村鑑三 代表的日本人

 

どーもおがわです。

 

 

急速に西洋化が進んだ明治時代に、西洋諸国に日本の思想を伝えた三大名著があります。

 

 

 

1)内村鑑三 代表的日本人 Representative Men of Japan

 

2)新渡戸稲造 武士道  BUSHIDO The Soul of Japan

 

3)岡倉天心 茶の本 The Book of Tea

 

 

今回は内村鑑三の代表的日本人を簡単にご紹介しますね。

 

 

 

 

「代表的日本人」とは?

内村鑑三(1861~1930)は,「代表的日本人」として西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮の五人をあげ,その生涯を叙述する。

 

 

日清戦争の始まった1894年に書かれた本書は岡倉天心『茶の本』,新渡戸稲造『武士道』と共に,日本人が英語で日本の文化・思想を西欧社会に紹介した代表的な著作である。

 

 

引用:Amazon

 

 

 

 

 


作者 内村鑑三(うちむらかんぞう)とは?

内村鑑三
内村鑑三 (1861~1930)

 

内村 鑑三(うちむら かんぞう)は明治・大正期のキリスト教の代表的指導者、伝道者です。

 

 

代表作に『代表的日本人』があります。

 

 

この『代表的日本人』は新渡戸稲造の『武士道』、岡倉天心の『茶の本』と共に、日本の精神を西洋に伝えた三大名著と言われています。

 

 

1877年に札幌農学校に第2期生として入学しました。

 

 

その時に、「Boys be ambitiou」で有名なクラーク博士の残した「イエスを信ずる者の契約」に署名し、キリスト教に入信します。

 

 

ちなみに、武士道の新渡戸稲造と植物学の大家である宮部金吾は札幌農学校の同期であり、生涯の親友です。

 

 

 

 

■内村鑑三の来歴

内村鑑三の来歴

 

以下が内村鑑三の来歴になります。

 

 

クリックで画像が拡大可能です。

 

 

 

内村鑑三の来歴
内村鑑三の来歴(クリックで拡大)

日本の精神を西洋に伝えた三大名著

 

明治時代は日本が欧米列強に肩を並べようと近代化に邁進していました。

 

 

そんな時代において、日本国内においても失われようとしていた「日本の精神性」を世界に知らしめようと、英語で出版された三大名著があります。

 

 

1)内村鑑三 代表的日本人 Representative Men of Japan

 

2)新渡戸稲造 武士道  BUSHIDO The Soul of Japan

 

3)岡倉天心 茶の本 The Book of Tea

 

 

いずれも西洋諸国で大ヒットしました。

 

 

 

「代表的日本人」はジョン・F・ケネディの愛読書

ジョン・F・ケネディ

 

 

 

43歳という若さで第35代アメリカ合衆国大統領に就任したジョン・F・ケネディ

 

 

彼が各国の記者団相手の記者会見にて、日本人記者の一人からこのような質問がありました。

 

 

 

 

「日本人で最も尊敬する政治家は誰ですか?」

 

 

その時、ケネディは、その記者の目をしっかりと見つめてこう言いました。

 

 

 

 

ジョン・F・ケネディ
ジョン・F・ケネディ
「YOZAN UESUGI(上杉鷹山)」

 

 

質問をした記者は予想だにしない名前に驚いたと言います。

 

 

記者の中には、上杉鷹山を知らない人もいました。

 

 

ケネディは「代表的日本人」を読み、上杉鷹山を尊敬するようになったと言われています。

 

 

 

ケネディ大統領のおかげで、日本で上杉鷹山は注目をされることになります。

 

 

 

 

 

内村鑑三を知るためのエピソード3選

内村鑑三を知るためのエピソード3選

 

内村鑑三はどんな人だったのでしょうか?

 

 

内村鑑三を知るために、興味深いエピソードを紹介しますね。

 

 

さらに詳しく知りたい方は、内村鑑三の著書を読んでみてください。

 

 

「代表的日本人」以外にも多くの著書が出ています。

 

 

 

 

 

1)「二つのJのために人生を捧げる」と誓った。

二つのJのために人生を捧げる

 

内村鑑三は非常に成績優秀で、1881年(明治14年)に札幌農学校を農学士として首席で卒業しました。

 

 

卒業の際、同じ札幌農学校の第二期生であり、生涯の親友であった新渡戸稲造と宮部金吾、内村鑑三の3人は札幌の公園で人生を「二つのJ」のために捧げることを誓い合ったそうです。

 

 

 

素敵やん。

 

 

新渡戸稲造、宮部金吾と共に札幌農学校時代
新渡戸稲造、宮部金吾と共に札幌農学校時代

 

 

 

この三人は札幌農学校の「3秀才」と呼ばれ、いずれも大成します。

 

 

宮部金吾は植物学の大家になり、

 

 

新渡戸稲造は日本の精神を西洋に伝えた三大名著の一つ「武士道」を著しています。

 

 

「武士道」の内容も簡単に紹介していますので、こちらのブログもあわせて読んでみてくださいね。

 

 

 

↓↓↓↓↓↓

 

新渡戸稲造の「武士道」から武士道精神を学ぶ

 

 

 

おがわ
おがわ
内村はキリスト教なので、日本はダメ、西洋素晴らしいという考えだと思っていました。しかし、代表的日本人を著したことから分かるようにキリスト教徒と日本魂と併せ持つ人物だったそうです。魅力的な人だな~

2)内村鑑三不敬事件

不敬事件
不敬事件(クリックで拡大)

 

「不敬事件」は内村鑑三の人生で最大の試練ともいうべき災難です。

 

 

内村鑑三は1890年(明治23年)より、第一高等中学校(現・東京大学教養学部、千葉大学医学部、薬学部)に務めていました。

 

 

1891年(明治24年)に学校の講堂で挙行された教育勅語奉読式において、教員と生徒たちは「教育勅語」の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、「奉拝」することが求められた。

 

 

 

その際に内村鑑三は舎監という校長・教頭の次に偉い地位だったにも関わらず、最敬礼をしませんでした。

 

 

 

(内村鑑三はキリスト教徒だったので、教育勅語への最敬礼は宗教的なイベントと捉え、迷いがあり、明治天皇のサインに軽く頭を下げるにとどめたという話があります。)

 

 

 

内村鑑三は敬礼をしなかったわけではなく、最敬礼をしなかっただけです。

 

 

そのことが、他の教員や生徒たちに非難され、社会問題にまで発展してしまいます。

 

 

 

 

おがわ
おがわ
現在の私たちの感覚では、「別に礼をしたんやから、最敬礼はじゃなくてもえーやん」と思いますが、当時はどえらい失礼なことだったのでしょうか。不敬事件は鑑三のものが有名ですが、この時期それ以外にも起きています。

 

 

 

事態の悪化に驚いた木下校長は、敬礼は信仰とは別の問題であると述べて、改めて内村に敬礼を依頼します。

 

 

そして、内村もそれに同意します。

 

 

 

しかし、一連の非難のストレスからか鑑三は悪性の流感(流行性感冒:インフルエンザウイルスによって起こる感染症の一つ)にかかり、寝込んでしまします。

 

 

そこで木下校長が代理として、最敬礼を行いますが、マスコミがこの事件を非難し、大きく取り上げ、内村鑑三の不敬事件」として全国に喧伝しました。

 

 

最終的にはキリスト教への批判にまで発展します。

 

 

 

鑑三は第一高等中学校を辞職します。

 

 

 

さらに、不幸は続きます。

 

 

妻の加寿子(かずこ)は、不敬事件での非難のストレスより、病死してしまいます。

 

 

鑑三はさらに精神的ダメージを受けて、完全に憔悴しきってしまいます。

 

 

かわいそうすぎますね・・・。

 

 

 

 

おがわ
おがわ
マスコミと世論から叩かれるストレスは計り知れません。 この事件の後、鑑三は札幌に行き、親友である新渡戸稲造と宮部金吾の元でゆっくり過ごし、少しづつ元気を取り戻していきます。

3)4度の結婚

 

 

内村鑑三は生涯に四度結婚しました。

 

 

 

①浅田タケ(1884~1884)

・・・半年で離婚。原因はタケの異性関係の疑惑とも言われています。

 

②横浜加寿子(1889~1891)

・・・不敬事件のストレスで病気になり死別。

 

③築山もと・・・(1892~1892)

・・・京都の旅宿で築山もとと結婚したがすぐに離婚。

 

④岡田静子(1892~1930)

・・・鑑三がなくなるまで添い遂げた。

 

 

 

()内は結婚をしていた期間です。

 

 

①~③は非常に短期間です。

 

 

 

 

一番の妻である浅田タケと結婚したのが、23歳の時です。

 

 

上手くいかなかったようで、半年で離婚

 

 

親友の宮部金吾にタケのことを「羊の皮を着た狼」であると手紙で書いています。

 

 

 

 

内村鑑三
内村鑑三
僕のカミ以外だれにもわからないつらい苦しみを味わされた。僕は長期にわたり、その苦しみのもとを探したが、なにも見つからず、責めは僕にあると思っ ていた。ところが最近になり、我が家を長い間煩わせていた秘密が明らかになっ たのだ。ああ!ああ、それは僕を助け、慰め、力を貸してくれる人であると思い 込んでいた「彼女」が悪の張本人であり、羊の皮を着た狼であるとわかったのだ。 よき妻を望んだ僕の祈りは、その正反対のかたちで報いられたのだ。父なる神よ、 僕は何をしたため、これほどの厳罰を受けるのでしょうか。

 

 

 

えらい言われようですね・・・。

 

 

 

 

 

 

 

二番目の妻である横浜加寿子は、先の「不敬事件」のところで書いていますが、この事件のストレスで病気になり死別します。

 

 

病気になってしまった鑑三の代わりに抗議者を引き受けていたといいますから、優しい人だったのではないでしょうか?

 

 

結婚生活は二年くらいです。

 

 

一番かわそうな奥さんです。

 

 

 

三番目の妻である築山もとに関しては、詳しい情報はありません。

 

 

燃え上ってしまったのでしょうか!!?

 

 

 

四番目の妻である岡田静子は、鑑三が亡くなるまで38年間を一生に過ごしました。

 

 

静子は穏やかでやさしい女性で、鑑三を献身的にささえたそうです。

 

 

鑑三は静子のことを堂々とこのように言っています。

 

 

 

 

 

 

内村鑑三
内村鑑三
「従順・謙遜・柔和を備えた守護天使である。」「しずは内村の家に福を持って来た。」

世界に誇る5人の「代表的日本人」

代表的日本人

 

 

「代表的日本人」の中で、内村鑑三が紹介している偉人は、

 

 

①西郷隆盛 A Founder of New Japan(新日本の創設者)

 

②上杉鷹山 A Feudal Lord(封建君主)

 

③二宮尊徳 A Peasant Saint(農民聖者)

 

④中江藤樹 A Village Teacher(村の先生)

 

⑤日蓮上人 A Buddhist Priest(仏教僧)

 

 

の5人です。

 

 

西郷隆盛や二宮尊徳、日蓮上人は教科書で習いました。

 

 

上杉鷹山や中江藤樹は教科書に載ってたかもしれませんが、知名度は低めですね。

 

 

それでは、簡単に5人をご紹介いたします。

 

 

※紹介文は『名著「代表的日本人」を読む 知的生きかた文庫』から引用させていただいております。

 

 

 

 

1)西郷隆盛 ― A Founder of New Japan

西郷隆盛
西郷隆盛 (1827~1877)

 

薩摩藩の下級藩士の家の出身で、通称は吉之助。 

 

 

号は南洲。

 

 

藩主である島津斉彬の知遇を受け、幕末、国事に奔走。

 

 

徳川幕府の第二次長州征伐以後、土佐藩の坂本龍馬とともに薩長同盟に尽力。

 

 

以後、大久保利通(薩摩藩)、木戸孝允(桂小五郎=長州藩)らと討幕運動をすすめ、王政復古・戊辰戦争を指揮、江戸の無血開城に成功する。

 

 

維新後、新政府の参議となり、「廃藩置県」を断行。

 

 

のち「征韓論」を主張して入れられず下野した。

 

 

薩摩に戻り私学校(士族の軍事訓練機関)を設立、子弟を養成。

 

 

鹿児島には士族の支配体制が続き、政府の開明的諸政策や士族解体策に反対した。

 

 

一連の「士族反乱」ののち、私学校の生徒らに擁立されて、旧薩摩藩の士族を中心とする反乱「西南戦争」を起こすが、敗れて城山で自刃した。

 

 

 

 


2)上杉鷹山 ― A Feudal Lord

上杉鷹山
上杉鷹山 (1751~1822)

 

第九代米沢藩主。

 

 

鷹山は号で、名は治憲。

 

 

上杉家の藩祖は上杉謙信である。

 

 

豊臣秀吉時代には会津100万石を領していたが、「関ヶ原の戦い」で西軍の石田三成に与して敗れたため、東軍の徳川家康によって米沢に国替えされ、30万石に減封された。

 

 

そのため財政は厳しく、藩政の確立に大変な苦労する。

 

 

藩政の改革に努力をし、みずからも節約・倹約を励行。

 

 

財政改革・殖産興業・新田開発などを行って藩政を立て直した。

 

 

米沢織は、鷹山が桑・青麻の植栽を奨励して、小千谷から縮の技術を導入したのに始まる。

 

 

藩校「興譲館」を設立、教育にも尽力した。

 

 

 

 

 


3)二宮尊徳 ― A Peasant Saint

二宮尊徳
二宮尊徳 (1787~1856)

 

江戸時代後期の農政家であり思想家。

 

 

相模国の人で、通称は金次郎。

 

 

合理的で豊富な農業知識の持ち主で知られ、小田原藩・相馬藩など諸藩の疲弊した農村の復興に尽力した。

 

 

「天保の改革」を断行した老中・水野忠邦に登用され幕臣となったが、日光地方の荒廃した村々の復興に従事中、病死。

 

 

農業技術と道徳を結び付けた「報徳仕法(尊徳仕法とも)」すなわち報徳思想(受けた恩徳に報いる考え方)にもとづく農村復興策を説き、教えた。

 

 

その思想・行動は弟子たちに受け継がれ、尊徳の死後にも影響を与えた。

 

 

ちなみに報徳教とは、道徳と経済との調和実行を説いた尊徳の教えのこと。

 

 

明治以降、国定教科書や唱歌などにも登場した。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

ちなみに、学校に設置されている薪を背負い働きながら勉強をしている二宮金次郎(尊徳)像ですが、現在は右のように座っているものも登場しているそうです。

 

 

 

二宮金次郎像の昔と今
二宮金次郎像の昔と今(クリックで拡大)

 

 

 

これは金次郎像を見た親の

 

 

「子供が真似して歩きスマホしたらどーすんねん!!!」

 

 

という意見から、作成された像になります。

 

 

すると今後は

 

 

「仕事中に座り込んで、サボっとるがな!!!」

 

 

という意見があるそうです。

 

 

 

もーポイズン

 

 

もう、言いたいことも言えないこんな世の中はポイズンです。

 

 

 

 

4)中江藤樹 ― A Village Teacher

中江藤樹
中江藤樹 (1608~1648)

 

江戸時代初期の儒者。

 

 

名は原。

 

 

近江国の人で、通称は与右衛門。

 

 

はじめ伊予国大洲藩に仕えるが、当地に来た禅僧に触発されて、儒教の根本経典とされる四書(「大学」「中庸」「論語」「孟子」)の注釈書、36巻からなる「四書大全」に取り組み、朱子学を学んだ。

 

 

やがて自身の病弱と母への孝養を理由に藩に暇乞いを願うが許されず、のちに脱藩して帰郷。

 

 

その後、朱子学への疑念を深め、宗教的傾向を強める。

 

 

王陽明の著書に接して朱子学から脱却し、日本的「陽明学」の祖となる。

 

 

この時期の著した「翁問答」は平明な文章で孝の思想(両親を敬い子としての道を尽くすこと)を説き、代表作となった。

 

 

村民を教化し、徳行(功徳と行法)をもって聞こえ、近江聖人と称された。

 

 

門下に陽明学者・熊沢蕃山(1619~1691)などがいる。

 

 

 

 

 


5)日蓮上人 ― A Buddhist Priest

日蓮上人
日蓮上人 (1222~1282)

 

鎌倉時代の仏教僧で日蓮宗の開祖。

 

 

諡号は立正大師。

 

 

安房小湊の人。

 

 

12歳で仏門に入って各地で諸宗を学ぶが、「法華経」を唯一のよりどころとした。

 

 

法華経によってだけ末世(仏法のすたれた世のなか=末法の世)での平安もありうること悟り、日蓮宗を開く。

 

 

この時期、さかんに末法思想が流布され、仏法の滅びる時代に至ると恐れられて厭世観や危機感が広がっていた。

 

 

辻説法で他宗を次々と攻撃、論破。

 

 

幕府に「立正安国論」を献じ、国難を予言するが受け入れられず、伊豆に配流される。 

 

 

赦免後も幕府や諸宗の批判をやめなかったために佐渡へ流された。

 

 

のちに許されて甲斐の身延山に隠棲。

 

 

晩年、武蔵国千束郡(東京都大田区池上)で六老僧(6人の高弟)を定めて、池上本門寺で没した。

 

 

 

 

 

 


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