【前編】「茶の本」の作者 岡倉天心とは?日本美術を信じた男の波乱万丈の人生を紹介

岡倉天心

 

どーも、おがわです。

 

 

 ゴールデンウィークで暇なので、すこし日本文化を勉強しようと思い、Amazonで「茶の本」を買いました。

 

 

岡倉天心の「茶の本」という名前は知っていたのですが、なんとなしに読まないまま、ボーとしてたら、40代の足長くないおじさんになってしまいました。

 

 

 

じつは、「茶の本」を書いた岡倉天心

 

 

岡倉天心は急激に日本が西洋化していった明治時代に、日本の伝統美術の良さを必死で守り、伝えようとしたスゴイ人だったんですね。

 

 

 

天心のことを「お茶の人」くらいに軽く考えていた自分が恥ずかしいです(汗)

 

 

別所哲也を「ハムの人」と呼ぶのとちょうど同じくらい失礼な話です。

 

 

 

岡倉天心はその功績から「日本近代美術の父」と呼ばれています。

 

 

今回はそんな岡倉天心を簡単に紹介したいと思います。

 

 

 

 

茶の本の作者 岡倉天心(おかくらてんしん)とは?

岡倉天心

 

岡倉天心(1863-1913)は、急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治という時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家、美術運動家として近代日本美術の発展に大きな功績を残しました。

 

 

その活動には、日本画改革運動や古美術品の保存、東京美術学校の創立、ボストン美術館中国・日本美術部長就任など、目を見張るものがあります。

 

 

また、天心は自筆の英文著作『The Book of Tea(茶の本)』などを通して、東洋や日本の美術・文化を欧米に積極的に紹介するなど、国際的な視野に立って活動しました。

 

 

引用:天心記念五浦美術館

 

 

 

 

おがわ
おがわ
岡倉天心の写真はどれも、なんか目が怖い・・・。すごく目がすわっています。どんな人だったのだろうか。

岡倉天心
岡倉天心

 

13歳の宮本武蔵の次に怖い目つきです。

 

 

準優勝です。

 

 

13歳の宮本武蔵
13歳の宮本武蔵

■岡倉天心の来歴

岡倉天心の来歴
岡倉天心の来歴
岡倉天心の来歴(クリックで拡大)

岡倉天心を知るための2つのエピソード

 

それでは、岡倉天心を知るための2つのエピソードを紹介します。

 

 

個人的に好きなエピソードをチョイスしました。

 

 

ではでは・・・

 

 

①アメリカ人になめられて、見事な英語での切り替えし

ボストンにてアメリカ人におちょくられて天心は!?
ボストンにてアメリカ人におちょくられて天心は!?

 

 

明治36年(1903年)に、天心はアメリカのボストン美術館からの依頼で、弟子の横山大観、菱田春草と一緒にアメリカに行くこととなりました。

 

 

アメリカと言えど、日本スタイルを貫くのが岡倉天心です。

 

 

羽織に袴というバリバリのジャパニーズサムライスタイルで、天心がボストン市内を歩いていると

 

 

1人の若いアメリカ人から冷やかし半分の声をかけきました。

 

 

 

 

 

アメリカ人
アメリカ人
おまえたちは何ニーズ?チャイニーズ? ジャパニーズ?それともジャワニーズ?

 

 

とアメリカ人におちょくられたので、

 

 

頭がキレッキレの岡倉天心は返す刀で英語で流暢に言い返しました。

 

 

 

 

岡倉天心
岡倉天心
我々は日本の紳士だ!あんたこそ何キーか? ヤンキーか?ドンキーか?モンキーか?

 

※原文

What sort of nese are you people? Are you Chinese, or Japanese, or Javanese?

We are Japanese gentlemen. But what kind of key are you? Are you a Yankee, or a donkey, or a monkey? 

 

 

 

 

 

もう、あれですよね・・・

 

 

これって、もう

 

 

ほぼ、ラップバトルですよね、岡倉天心・・・

 

 

 

悪そな奴はだいたい知らない人の平和を好む農耕民族の私には思いつかない、パンチラインです(適当)。

 

 

 

お前の母ちゃん出べそ~
お前の母ちゃん出べそ~

②恩師の奥さんと禁断の恋 ~美術学校騒動~

美術学校騒動
美術学校騒動

 

美術学校騒動とは・・・

 

 

明治31年(1898年)に岡倉天心が「帝室博物館美術部長」と「東京美術学校校長」を辞職させられる時に起きた学校騒動の事です。

 

 

この少し前に、「帝国博物館館長」である文部官僚の九鬼隆一の更迭の噂が広まりました。

 

 

九鬼隆一は、なんとしてもこの立場を守りたかった。

 

 

 

 

 

九鬼隆一
九鬼隆一
 いやだ、いやだ!!わしは絶対に「帝国博物館館長」を辞めないもん!

 

 

そこで、岡倉天心と犬猿の仲であった東京美術学校の図案科教師である福地復一に、

 

 

天心のついている「帝国博物館美術部長」の地位をあげる代わりに、九鬼の「帝国博物館館長」続投するような働きかけを行なってもらった。

 

 

 

九鬼隆一
九鬼隆一
わしはどうしても帝国博物館館長を続けたいのだ。天心の代わりにお前を「帝室博物館美術部長」の役職につけてやる。その代わり頼むぞ。

福地復一
福地復一
 フフフ、お任せください・・・憎っくき岡倉天心め・・・これでお前も終わりだ

九鬼隆一
九鬼隆一
お主も悪よのー。わしも天心嫌い。だってわしの嫁とW不倫してるもん!

 

 

もともと岡倉天心を高く評価して、引き立てたのが上司である文部官僚の九鬼隆一でした。

 

 

二人はもともとすごく良い関係でした。

 

 

天心の残したメモにこのような将来の夢が書かれていたくらいです。

 

 

 

 

岡倉天心
岡倉天心
「第一・四十歳にて九鬼内閣の文部大臣となる、第二・五十にして貨殖に志す、第三・五十五にして寂す」

 

 

しかし、その後、博物館の運営方針の違いで二人は仲が徐々に悪くなってきます。

 

 

さらに輪をかけて、天心は九鬼隆一の妻である波津子と、恋に落ちて、W不倫をしていたこともあり、さらに二人の仲は悪化します。

 

 

 

 

岡倉天心
岡倉天心
波津子さん、好きだ!

九鬼波津子
九鬼波津子
わたしも好きよ、天心さん

 

 

そして、「築地警醒会」なる謎の団体の名前で、岡倉批判の怪文書を関係各方面に送られることになります。

 

 

その怪文書の中に天心が「人の妻女を強姦し」と非難される内容があり、二人のW不倫関係は公に知られることになります。

 

 

この二人の関係は当時、かなりスキャンダラスな内容で、世間の好奇の対象となったようです。

 

 

 

築地警醒会 怪文書

 

 天心はこの事件の後に東京美術学校校長を辞任しています。

 

 

そして、この事件の後から波津子は精神を病んでしまい、九鬼隆一と離婚をします。

 

   

 

 みんな不幸になってしまいました。

 

 

 

怪文書を流した「築地警醒会」なる謎の団体の正体は何者なのでしょうか?

 

 

 

じつは・・・

 

 

 

「築地警醒会」の正体は?
「築地警醒会」の正体は?

 

「築地警醒会」の正体は天心に恨みを持つ福地復一だと言われています。

 

 

それが本当なら、とんでもないやつですね(怒)!

 

 

許せません!

 

 

 

天心もどせ

 

天心の東京美術学校校長を辞任にはまたひと悶着ありました。

 

 

東京美術学校の教師陣は、(黒田清輝らの西洋画科を除き)全ての教師が一斉に辞職を希望したり、学生も天心の復職を希望し、議論しました。

 

 

その後、東京美術学校校長を辞任した天心は、一緒に辞めた横山大観らを連れ、日本画の新しい可能性を模索する日本美術院を下谷区谷中に発足させるのである。

 

 

渡米して、「茶の本」を記すのは、その後のお話です。

 

 

 

おがわ
おがわ
以上が美術学校騒動の簡単な紹介です。もう昼ドラかってくらい、ドロドロしていますね。以下は私の妄想です。すみません💦

(余談)九鬼周造は九鬼隆一と波津子の子供

九鬼周造は九鬼隆一と波津子の子供

 

 

じつは『「いき」の構造』の著書で有名な、哲学者の九鬼周造は九鬼隆一と波津子の子供です。

 

 

周造が生まれた時には、隆一と波津子は別居しており、訪ねてくる岡倉天心を父親だと考えたこともあったと、随筆の中で書いています。

 

 

生みの父・隆一、精神上の父・天心、そして喪われた母という、この3人のはざまで幼少期・青年期の周造は成長しくこととなります。

 

 

それは後の周造の精神形成にも大きな影響を与えることとなったと考えられています。

 

 

 

 

おがわ
おがわ
『いき』とは「粋だねー」のいきです。 周造は日本人の粋という感覚を、分析したんですね。 確かに粋って、日本人しか分からん感覚かもしれません。 ジェントルマンとも違うし

岡倉天心の波瀾万丈の人生を知るための映画・本

 

それでは、岡倉天心の波乱万丈の人生を知るための映画と本を紹介します。

 

 

映画「天心」は岡倉天心の人生を二時間で良くまとめられています。

 

 

このブログで予備知識を持ってみると、より楽しめると思います。

 

 

 

 

 

■映画『天心』


 

実は岡倉天心の生涯は2013年に竹中直人さんが主演で映画化されています。

 

 

以下は映画「天心」の公式サイトからの引用です。

 

 

法隆寺や興福寺を復興し、東京美術学校、日本美術院創立に携わったのち、日本人初のボストン美術館東洋部長に就任。

 

世界的ベストセラー「茶の本」を著すなど、日本近代美術の父といわれた岡倉天心。

 

その華やかな活躍の影には、天心と若き弟子たちとの、壮絶な葛藤と創作の日々があった。

 

明治初期。

 

廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、仏寺や伝統美術が失われようとするなか、“アーネスト・フェノロサと岡倉天心”は「日本の美」を救おうと奔走していた。

 

その後天心は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の校長に就任。

 

横山大観、菱田春草、下村観山ら若き才能を育成し、美術界のエリートコースを歩んでいたが、西洋画派との対立により辞任。

 

日本美術院を立ち上げるも、天心が提唱し大観、春草らが編み出した新画法が「朦朧体」と揶揄され、次第に苦境へと追い込まれる。

 

新天地を求めた天心は、茨城県五浦に「六角堂」を建て、日本美術院を移転し、新たな日本画の創造を目指し、壮絶なまでの創作活動に没頭していくのであったが…。

 

100年前に「クールジャパン」を創った男たちの、魂の物語がここに誕生した。

 

引用:映画「天心」公式サイト

 

 

 

 

■文豪 松本清張が書く天心の小説「岡倉天心 その内なる敵」

岡倉天心生誕百五十年・没後百年・五浦六角堂再建!

 

数々の奇行と修羅場、その裏にあった人間と美術への愛。

 

清張自ら天心の足跡をたどり新資料を発掘し、精緻に描いた異色の評伝。

 

引用:amazon

 

 


■九鬼隆一と岡倉天心の二人を中心に書いた小説「九鬼と天心 明治のドン・ジュアンたち」

明治初期、「廃仏毀釈運動」における日本文化財の破却の危機を救った二人の英雄がいた。

 

九鬼隆一と岡倉天心である。

 

二人は全国の主だった寺社仏閣を調査し、保護するべき文化財を実態把握した。

 

その上で、文化財保護の基本法となる古社寺保存法を明治30年(1897年)に制定する。

 

二人はまさに日本文化の荒廃をすんでのところで救ってくれた救世主であった。

 

しかし、人間には光と影がある。

 

二人には非常な能力とともに強烈な欲望をあわせもっていた。

 

それは出世欲であり、独占欲であり、そして何より強い性欲であった。

 

本書は、日本の美と文化を守った九鬼・岡倉コンビの活躍と、その裏に隠された愛憎渦巻く修羅の世界を描くものである。

 

福沢諭吉、九鬼波津子、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、九鬼周造など、明治という激動の時代を生きた魅力ある人物たちが登場。

 

道徳の教科書に載るような聖人君子伝では味わえない示唆を与えてくれる一冊。

 

引用:Amazon


 

 

岡倉天心が、茶の本を書く経緯や晩年どのように過ごしたかなどは、後編にまとめます。

 

 

下の画像をクリックして、後半も読んでみてくださいね。

 

 

 

 

 

 

「茶の本」の本編も下記のブログにまとめています。

 

 

 

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