どうも、合気道合心館のおがわです。
今回は中島敦さんの「名人伝」というお話を紹介します。
この話の元ネタは中国の「列子(れっし)」という古い本の中に出てくるお話です。
列子は老子の流れをくむ言われている道教の人です。
ですから、この「名人伝」に出てくる弓の名人は道教的な思想の影響をうけた仙人的な?名人になります。
はたしてこの弓の名人は名人なのか・・・・名人でないのか・・・・
中島敦(なかじまあつし)
中島 敦(なかじま あつし、1909年(明治42年)5月5日 - 1942年(昭和17年)12月4日)は、日本の小説家。
代表作は『山月記』『光と風と夢』『弟子』『李陵』など。
第一高等学校、東京帝国大学を卒業後、横浜高等女学校の教員勤務のかたわら小説執筆を続け、パラオ南洋庁の官吏(教科書編修書記)を経て専業作家になるも、同年中に持病の喘息悪化のため33歳で病没。
死後に出版された全集は毎日出版文化賞を受賞した。
その短い生涯に残した著作は、中国古典の歴史世界を題材にした作品や、南島から材を得た作品、古代伝説の体裁をとった奇譚・寓意物、自身の身辺を題材にした私小説的なものなど、未完作も含めわずか20篇たらずであったが、漢文調に基づいた硬質な文章の中に美しく響く叙情詩的な一節が印象的で、冷厳な自己解析や存在の哲学的な懐疑に裏打ちされた芸術性の高い作品として評価されている。
特に遺作となった『李陵』の評価は高く、死後に名声を上げた作品のひとつとして知られている。
また、『山月記』は雑誌『文學界』に掲載されたことで中島敦の名を初めて世間に知らしめた作品であり、のちに新制高等学校の国語教科書に広く掲載され、多くの人々に読み継がれている。
なお、自筆資料や遺品は神奈川近代文学館の「中島敦文庫」に所蔵されている。
引用:Wikipedia
■中島敦の「名人伝」
昭和初期に活躍したが惜しくも早世した小説家、中島敦の短編小説。
1942(昭和17)年の「文庫」に発表された。
趙の都・邯鄲に住む紀昌が、天下第一の弓の名人になろうと志を立て、当今弓矢をとっては及ぶ者がないと思われる名手・飛衛、次いで飛衛をしておのが技は児戯に等しいと言わしめる仙人・甘蠅に師事して「不射の射」を体得する。
真の名人となった紀昌の心は弓への執着からも離れ、ついには弓そのものを忘れ去るに至る。
引用:Amazon
中島敦の傑作短編を、小林豊が絵本化!
中国の古典をベースに、だれよりも弓をきわめた男を描いた不思議な物語です。
紀元前3世紀、中国の都・邯鄲(かんたん)で、天下一の弓の名人をめざした男がいました。
その名は紀昌(きしょう)。
弓の達人、飛衛(ひえい)のもと、まず目の鍛錬に5年をかけ、驚異の眼力を会得。
それから弓をとり、射術の教えを受けるのですが、「見ること」をじゅうぶんに学んだ紀昌の上達は早く、3ヵ月で百発百中、なんと紀昌の放った矢のやじりに、次に射た矢のやじりが寸分のくるいもなく連なり、一直線になるというところまで上達します。
ここで、すでに「名人」といってもおかしくない腕前ですが、
さらなる高みをめざす紀昌は、聖なる山に住む弓の大家、甘蠅老師(かんようろうし)をたずね、上には上がいることを知り衝撃をうけます。
この山で、弓を使わずに獲物を射る「不射之射(ふしゃのしゃ)」を9年かけて会得し、邯鄲へ帰還。
しかし、紀昌を出迎えた都の人びとは……。
最初の修行、目を鍛えるための「まばたき厳禁」からして、強烈!
2年をかけ、何があっても目をつぶらず、たとえ石が顔にあたろうともまばたきをせず、夜もカッと大きく目を見開いたまま熟睡するまでになったという紀昌の超人ぶりに驚かされますが、いちばん驚愕するのはラストかもしれません。
子どもだけでなく、大人でも深く味わうことができ、「真の名人」とはどんなものかを伝えてくれる絵本です。
引用:Amazon
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列子(れっし)とは?
生没年不詳。
中国古代の思想家。道家(どうか)の代表者、またその著作とされる書物。名は禦寇(ぎょこう)。鄭(てい)の人。
老子(ろうし)の弟子、あるいは関尹子(かんいんし)の弟子、あるいは老商子(ろうしょうし)の弟子などといわれ、また荘子(そうし)の先輩ともされるが、その事績は不明である。
『列子』や『荘子(そうじ)』の書中に列禦寇の説話がみえるが、いずれも事実とは定めがたく、ために人物の実在を疑う説もある。
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■老子(道教)を理解するための動画
中島敦の「名人伝」のあらすじ
それでは中島敦の「名人伝」のあらすじをフリー素材のみで無理やり紙芝居風にご紹介します。
あくまで無理やりなので、きちんと知りたい方は原書を読んでくださいね。
①むかしむかし、どうしても天下一の弓の名人になりたい男がおりました。
昔、中国の邯鄲(かんたん)の都に、
「天下一の弓の名人になる!」
と志を立てた紀昌(きしょう)という若者がいました。
②紀昌(きしょう)は飛衛(ひえい)という弓の名人に弟子入りしました。
紀昌は飛衛(ひえい)というむちゃくちゃすごい弓の達人がいるという噂を聞きました。
飛衛は遠い距離から、柳の葉を百発百中で射貫くという、すごい達人だというのです。
紀昌は遠路はるばる飛衛をたずねて、弟子入りをしました。
③飛衛の厳しい試練 瞬き禁止!
飛衛は紀昌に、
「まずは瞬き禁止!」
とむちゃくちゃなことを言いました。
紀昌は「むちゃくちゃですやーん」とは言わずに、早速妻の機織りの下に潜り込んで、瞬きをしない練習をしたり、様々な瞬きをしない変な修行に取り組みました。
そして、その修行の成果で、飛衛はどんなことをされても、絶対瞬きしないマンになりました。
④試練!ノミが大きく見えるまで視ろ!
そして、絶対瞬きをしない紀昌に飛衛は
「瞬きをしないだけでは、まだまだ足りない。見る事を学びなさい。どんな小さなものも大きく見ることができるよう!に」
と言いました。
紀昌は再び家に戻もどり、髪の毛に一匹のノミを結びつけ、それを3年のあいだ見続けました。
そしてある日、気が付くとノミが馬くらいの大きさに見えるではないですか!!!
⑤紀昌は飛衛より弓の奥儀秘伝を授かりました。
紀昌は喜んで、「ノミが馬くらいに見えた!」と伝えると、飛衛は「出かしたぞ!」とはじめて褒めてくれました。
そして、飛衛が知る弓の奥儀秘伝をすべて紀昌に教え伝えました。
目の修行に5年をかけた紀昌は弓の奥儀秘伝をぐんぐん吸収し、遠くから柳の葉を射ると、百発百中で射貫けるようになりました。
⑥紀昌VS飛衛!!!師弟対決
「もはや師(飛衛)から学ぶものはない!」
自信をもった紀昌にある日、ふと良からぬ考えがわきました。
「いま、自分よりすごい弓の名人は師匠の飛衛しかない。自分が天下一の弓の名人になるためには、何としても飛衛を倒さなければならない。」
もうして、飛衛と対決するチャンスをうかがっていたある日、野道を師匠の飛衛が一人歩いてくるではないですか。
「チャンスだ!」
と思った紀昌は、弓をギリギリと引き絞り、飛衛にねらいをつけました。
その気配を察した飛衛も、弓をとり応じます。
二人が同時に発した矢は、お互いの中間でガシッとぶつかると、ともに地面に落ちました。
その後、何度繰り返しても、同じ結果になるばかりです。
⑦自分の行いを悔やみ涙する紀昌
ついに飛衛を倒すことが叶わないと知った時、紀昌の心に自分の行いを悔やむ気持ちがわきおこりました。
「ああ、私はなんということをしてしまったのか」
紀昌は飛衛のもとにかけよると涙を流してわびました。
飛衛はこの野心満々の危険な弟子である紀昌に
「もはやお前に伝える事はない。私のさらに上の道を究めたいと望むなら、西へ行け。そこに聖なる山がある。そこに甘蠅(かんよう)老師という、弓の大家がおられる。甘蠅老師の弓に比べれば、われわれの弓など子供の遊びにすぎない。」
と伝えました。
⑧甘蠅は100歳を超えるよぼよぼのおじいちゃん
紀昌は飛衛に感謝すると、すぐに西に旅立ちました。
そして、三ヵ月の旅の後、聖なる山に到着しました。
気負い立つ紀昌を優しく迎むかえた甘蠅は、100歳を超えているのではないかというよぼよぼのお爺さんでした。
早速、紀昌は上空を飛ぶ大鳥を射ぬき、自分の弓の実力を披露しました。
それを見て甘蠅は
「ほお、一通り出来るようじゃな・・・。しかし、それは所詮、射之射(しゃのしゃ)、あなたは今だ不射之射(ふしゃのしゃ)を知らないようだ。」
と穏やかな微笑を含ふくんで言いました。
⑨不射之射(ふしゃのしゃ)弓などいらぬ!
その言葉を聞いて「ムッ」とした紀昌を、甘蠅は断崖絶壁に連れていきます。
とんでもない高さで、下を見るとめまいがするほどの断崖絶壁です。
「どうじゃ。この断崖絶壁で先程のあなたの弓の実力をもう一度見せてくれないか」
と甘蠅は紀昌に言います。
弓をひこうとする紀昌ですが、あまりの恐怖でその場に立っていることもできません。
甘蠅は笑いながら
「それでは私の射というものをお目にかけよう!」
と素手で上空に弓をひくポーズをしました。
「えっ!?弓は?」
と紀昌は驚いて、甘蠅に聞きます。
「弓などいらぬわ!弓がいるうちは射之射!不射之射には我が肉体のみで十分よ!!」
と矢を放つポーズをする甘蠅ですが、なんと次の瞬間、上空から鷲が落ちてくるではないですか!
紀昌は驚きのあまり声も出ず、始めて弓の道の深淵を覗き得た心地になりました。
そして、甘蠅の元に弟子入りをし、修行をする決意をするのでした。
⑩9年後・・・
九年間、紀昌はこの甘蠅のもとにとどまり、修行をしました。
しかし、その修行がどのようなものであったかは誰もわかりません。
九年後、紀昌は山から下りてきました。
その時、邯鄲の都の人々は紀昌の顔付の変化に大変おどろきました。
紀昌の顔からは以前の野心のあるキリリとした表情は影をひそめ、まるで愚か者のような力の抜けた顔つきになっていたのです。
邯鄲の都の人々は「奥さん、どうしたのかしら紀昌さん」と噂しましたが、旧師の飛衛だけは
「これでこそ天下一の弓の名人だ!とても私は敵わない!!」
と驚嘆したので、邯鄲の都の人々は首をかしげながらも
「なるほど。よーわからんけど、真の名人とはこのようなものなのか・・・」
と納得したそうです。
⑪まったく天下一の弓の技を見せてくれない紀昌
邯鄲の都の人々は、「天下一の名人の弓」を見せてくれることを楽しみにしていましたが、紀昌は全くその期待にこたえようとしません。
それどころか、まったく弓さえ手に取ることもないのです。
しかし、夜中に、色鮮やかな雲にのった紀昌が天空の星々に向けて弓を射っていたとか
盗賊が不思議な殺気をうけて紀昌の家の屋根の上でぶっ倒れたとか、噂がひとり歩きをはじめ、弓をとらない天下一に弓の名人の名声は広く知られることになり、邯鄲の都の人々の誇りとなっていきました。
⑫さらに40年の後・・・
甘蠅のもとから邯鄲の都の下りて来てから40年後、紀昌はまるで煙のように静かに世を去りました。
その40年間、彼はとうとう弓を手に取ることはありませんでした。
それどころか、弓のことを口にさえしませんでした。
このような話がある。
紀昌が死ぬ何日か前のこと、ある人が西方から非常に素晴らしい名弓を手に紀昌のもとを訪れたそうです。
その弓を見た紀昌は
「これは何という道具ですか?何に使うものなのですか?」
と言ったそうです。
はじめ客人は冗談を言っていると思ったそうですが、紀昌は真剣にそのように質問しているのです。
客人は驚いてこのように叫びました。
「なんという事だ!あの天下一の弓の名人と言われる紀昌先生が、本当に弓をお忘れになっているとは!!その名も!使い道も!!」
⑬それから邯鄲の都ではみんな道具をポイっしたそうです。
それからというもの、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、音楽家は楽器の弦を断ち、職人は定規を手にすることを恥じたそうです。
■名人伝のおすすめYoutube動画
紀昌は本当に天下一の弓の名人になったのか?
天下一の弓の名人を志し、厳しい修行に励んだ紀昌ですが、最終的には弓のことすら忘れてしまいました。
紀昌は本当に天下一の弓の名人になったのでしょうか?
このお話を聞いて、みなさんはどう思われますか?
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