【必見】合気道の 開祖「植芝盛平」のトンデモ伝説を集めてみました。開祖に鉄砲は当たらない!?

どうも小川です。

 

ところで 

 

合気道家の植芝盛平開祖は鉄砲を避けたそうですよ!

 

そんなバカな!

 

始めてそのエピソードを聞いた時に、そう思ったのは私だけではないはず。

 

植芝盛平開祖には信じられないような伝説がたくさん語り継がれています。

 

全て「真実」であるかは分かりませんが、

 

私は合気道家のロマンとして「真実」であってほしい!という気持ちが強いです。

 

ちなみに私は合気道を始めて、かれこれ20年ですが、鉄砲の玉を避けれるようになるキザシは全くありません・・・。

 

 

 

怪力伝説

現在の合気道に腕力を必要としないというイメージからはギャップがありますが、植芝盛平開祖は、若い頃かなり鍛え込まれて、かなりの怪力だったそうです。

 

身長は156㎝しかないのに、体重が80㎏くらいあった言います。

 

(肩幅がいかつくて、相撲取りの羽織を羽織れたそうです。)

 

植芝盛平開祖の「怪力伝説」を下にいくつかご紹介いたします。

 

しかし

 

常人離れした伝説で、鍛えただけでこんな事が本当にできるのか!?と思えるレベルです。

 

 

信じられない事ばかりですが、塩田先生が著書で書かれている事は、おそらく真実だと思います。

 

なぜなら、塩田剛三先生はかなり物事を客観的見られる方です(著書で拝見する印象ですが・・・)。

 

塩田剛三先生は開祖を尊敬されていましたが、開祖を神格化しすぎない。

 

受けを取る時はいつも本気でかかっていったそうです。

 

 

 

 

 

怪力自慢の若者が抜けない木を引っこ抜く

 

・内弟子の湯川勉氏は大力で、仰向けに寝て片手で石臼を楽に持ちあげられるほど、その腕力は抜群でした。

ある日、その湯川氏が合宿先の庭にあった直径十センチくらいの木を一生懸命抜こうと顔を真っ赤にして頑張っていましたが、根が深いと見えて中々抜けませんでした。

これを見ておられた植芝先生は、「湯川、なにをしておるんや、ちょっとかしてみい」とつかつかと木の傍に寄られ、ぐっと抱えると木はヒョイと抜けてしまいました。

これにはさすがの湯川氏も兜をぬぎ、「先生にはかなわぬ」といいました。

あまりに簡単に抜かれたので、私も同じような木に試してみましたが、どうしてどうしてビクともしませんでした。

地に根が生えたという形容通りでした。

 

引用:塩田剛三著 「合気道人生」 

 

7、8人が力を合わせても抜けない黒松を一人で抜く

 

・京都府綾部でのこと。

道に立ちふさがっていた黒松の根おこしに今まで7,8人の人たちが力いっぱい押してもビクともしなかった黒松が、盛平翁が一人でゆっくり押しつづけるとゆらゆら動き始め、根を一人で抜いてしまったのです。

 

 

何人が全力でぶつかってもビクともせず

 

・同じく京都府綾部でのこと。

盛平翁が消防隊を結成していたとき、消防隊員の訓練のひとつとして行ったものですが、盛平翁が、両足を開いて立ち、そこへ5,6歩さがった位置から隊員達が突進して、胸に体を打ちつけるという荒業でした。

隊員達は、相撲のぶつかりげいこのように、次々に全力でぶつかっていきましたが、盛平翁は、一歩もさがることなく、全員のあたりを受け止めてしまいました。

 

片腕に柔道家が二人ぶら下がっても余裕

 

・盛平翁の怪力ぶりは、田辺市高山寺の道場にも残っています。

盛平翁が壁にひとさし指一本を押しつけただけの腕に、二人の柔道家(約150kg)がぶらさがるというものです。

ところが、盛平翁は顔色ひとつ変えず二人を腕にぶらさげてしまったのです。ちなみに盛平翁70歳の時でした。

 

引用:田辺探訪

 

ムツゴロウさんな伝説

北海道開拓時代のエピソードだそうですが、熊とも仲良くなってしまう「和合の精神」。

 

軽くムツゴロウさんを越えています。

 

ひぐまと仲良くなり3晩を過ごす

 

・北海道のひぐまは獰猛で、馬を殺したり、人を殺したりするそうです。

そのひぐまと仲良くなり、三晩ともに寝ていた、というお話がある。

北海道にいらっしゃる頃だから、まだお若い時のことだ。

連れ一人とともに測量のため、原始林の深い山奥を踏みわけていった。

日も暮れてきたので、川のほとりに小屋をたて、そこにねることにした。

 

その土地は熊がでることで有名なところだったので、連れは恐ろしがって、先生にぴったりとくっついて寝た。

すると真夜中、ガサリガサリと草を分けてくる物音がしたので、外を見ると大き熊である。

「ヒャー、出た」とぶるぶる震える連れを、「大丈夫、大丈夫」と安心させ、やってくる熊をじっと見つめた。

熊は小屋のまわりの食べくずを食べると、ゴロリと横になってしまった。

害意なしとみた先生も、また横になり、朝まで眠ってしまった。

次の晩もきた。今度は先生が魚肉を熊に与えてあげた。その晩も熊と添い寝である。

 

害意のない、平和な心でいる先生に熊のほうがかえって安心したのだろう。

焼け方、朝日がさすと熊は帰っていった。その熊が一頭でなく二、三頭いたらしい。

先生がその土地にいる間、熊のほうから毎晩泊まりに来たそうである。

そして山に帰っていくときには、ちゃんと先生にお辞儀をしていったそうである。

 

引用:武産合気 高橋英雄編著 

 

マジで!鉄砲を避けた伝説!?

 

にわかには信じられません。

 

ヤードラット星人から瞬間移動(DBです💦)を教わったとしか思えません。

 

開祖が言うには、鉄砲を撃つ前に「光の玉」が飛んでくるので、それが見えたら腰をかがめて走り出すそうです。

 

これは塩田先生が対談で見たと言われていたので、本当なのだろうと思います。

 

むむむ・・・

 

合気道どうこうではなく、超人的な植芝開祖だからできたという事な気がします💦

 

私はたぶん水鉄砲でも避けれません💦

 

5人が撃った鉄砲をよけて、投げる!

 

・昔、砲兵官が植芝道場へ合気道を見に来たんです。彼らは鉄砲を撃って、銃身が右に曲がっている左に曲がっているなど検査をするんですが、そういう連中がニ五人ほど連れて見学に来ました。

 

 植芝先生は演武を見せた後、「わしゃ鉄砲は当たらんのじゃ」と言ったんですね。そうしたら彼ら怒ったんです、彼らはプライドがあるから。

 

 「本当ですか」と後で詰め寄ってきて、「それじゃあ先生一筆書いてくれ」と。「私は鉄砲で当たっても死んでも何とかかんとか・・・」と書かされて、そして大久保の射的場に連れられていきました。

 

 それはピストルだったんですけど、五人ですよ、五人でニ五メートル離れたところに的があるわけです。それがピストルの一番の射程距離だそうです。

 

 そこで五人が並んでそして植芝先生がニ五メートルの所に立ってそれに向かって一斉にバーンとやったんです。そうすると一人がぶん投げられて先生が後ろに来ちゃった。

 

 「こんな馬鹿なことがあるか。もう一回やらせてくれ」といったけれども二回ともやられちゃったわけ。で、先生は笑っている。

 

引用:高岡英夫の極意要談 塩田剛三先生との対談にて

 

ちなみにこの話には後日談があり・・・

 

塩田先生の知り合いで、山梨に「佐藤貞次郎」という猟師がいました。

 

・この人が鉄砲撃ちの名人なのです。

 

たとえば、山鳥を撃つ場合、猟師が山鳥が沢から降りてくるのを狙い撃ちします。

このときの山鳥のスピードは時速二百キロくらいになるんだそうです。

 

山鳥というのは、頭を撃たれると、そのままストンと落ちるのですが、腹を撃たれると、滑空していって遠くに落ちてしまう。

 

だから、猟師は皆、頭を狙ってその場に落としたいのですが、なかなかうまくいかない。

 

ところが、この佐藤さんは百発百中で頭を射抜くのです。

まさに鉄砲撃ちの名人中の名人です。

 

あるとき、私はこの佐藤さんに、植芝先生が鉄砲をよけた話をしました。

 

「それでもワシの鉄砲はよけられん」と、佐藤さんは自信満々です。 

「人間の頭なんてこんなにデカい。ワシは山鳥の頭を撃つんじゃ。人間に当たらないわけがない」

 

そう言って、佐藤さんは先生と勝負するために山から下りてきました。

 

塩田さんは佐藤さんを植芝道場に連れていって、勝負をしたい由を先生に伝えました。この挑戦を先生は受けたのです。

 

道場の奥に先生が正座して座り、離れたところから佐藤さんが猟銃を構えました。

さんは固唾を飲んで見守っていました。

佐藤さんの指が今まさに引き金を引こうとしたときです。

 

「まて、あんたの鉄砲は当たる」と、先生が制しました。

「あんたはワシを撃ってやろうなどという気持ちがこれっぽっちもない。最初から当たるつもりで撃とうとしている。そんな人の鉄砲はよけられない。たいしたものだ」

 

先生はそう言って、佐藤さんに頭を下げました。

佐藤さんはほんとに喜んで、また山に戻っていきました。

 

塩田先生は佐藤さんもすごいが、それを事前に見抜いた開祖にも驚いたそうです。

 

・・・という事は「光の玉」というのは、相手を打とうとする、「気」のようなものという事になるのでしょうか?

 

最強伝説

 

植芝盛平開祖の技はとにかく凄くて、他の武道の一流の方が弟子入りする事も多かったようです。

 

合気道というと、力を使わず、柔らかく制するような印象があるのですが、そんなレベルではなく、開祖はとにかく強かったそうです。

 

開祖の晩年の和合の精神と柔らかな技は、ひたすら「強さ」を求めていった先に行きついた境地なのかもしれません。

 

 

大相撲の天竜を投げる

・そうしたら先生は、「あんた天竜さんじゃないですか、あんたもおそらく、このじじいが、こんなにうまく投げられるとは思わないだろう。しかし武道というものは、そんなものじゃない」といい、自分は左手のほうが弱いからと左手を出し、「あんたは力も強いだろう。力も何も入れてないから何をしてもいい。やってご覧なさい」といわれたのです。

私は、「このじじい何をいってる」と思い、手をつかんだのですが、途端ハッと思いましたね。まるで鉄棒をつかんだような感じだったのです。

もちろん私どもは相撲界にいて、いろいろなことを知っていますから、これはいかんと思いました。もうそれで負けですよ。でもそのまま下がるわけにはいかず、とにかくねじ上げてみようと、グーッとやったが、ビクともしない。それで両手を使って力一杯やろうとしたのですが、それをうまくドーンと使われてひっくり返されていた。(中略)こういう武道があるかとほんとうに驚きました。その晩先生の宿舎を訪ねて、「どうか弟子にしてください」とお願いしましたら、牛込若松町の道場(皇武館道場)へ来なさいということになりました。

 

— 『植芝盛平と合気道 1』天竜三郎インタビュー、228-229頁

 

柔道のチャンピオン阿部謙四郎を組み伏せる

・私は阿部について調べるうち、不思議なところに辿り着いた。イギリスの合気道である。阿部は昭和三十一年(一九五六)、イギリスに渡っている。

在英合気道家ヘンリー・エリスが教えてくれた。

「イギリスでは、阿部先生は非常に優れた柔道家として、また、初めて合気道を持ち込んだ武道家として有名なんです」

しかし、阿部が合気道をやっていたという日本の史料はない。

「阿部先生は京都の武専を出た柔道の専門家です。いったいどこで合気道を習ったのですか?」

疑問をぶつけてみると、エリスは数十年前そのいきさつを阿部に直接聞いたことがあると言う。阿部は拙い英語でエリスに説明してくれた。

阿部が二十歳前後で、武専の学生だった頃の話だ。

柔道の試合のために夜汽車に乗っていた阿部の向かいの席に、髭を伸ばした老人が座っていた。

目が合うと、老人が言った。

「私は君を知っているよ」

「私は柔道のチャンピオンですからご存じなんでしょう」

阿部はあくまで慇懃に答え、礼儀として老人に名前を尋ねた。

「あなたの名前も教えていただけませんか」

「植芝盛平だ」

阿部は植芝の名を知らなかったので、興味を覚えず、「疲れているので眠らせていただきます」と言った。すると、植芝が阿部の顔に小指を突き出した。

「この小指を折ってみなさい」

阿部はその非礼にいらついて、植芝を黙らせるために思い切り小指を握った。その瞬間、阿部は車両の床に組み伏せられた。阿部はその場で植芝に弟子入りし、十年間合気道を習うことになる。(中略)

エリスは「阿部先生はたいへん控えめな方です。自分からこういう話をしたりはしなかったので、疑問に思った私が聞いてみたんです」と言うから、脚色なしの真実だろう。阿部は柔道家としての修業を続けながら、植芝に合気道も習っていたのである。

阿部の柔道には合気道の血が流れていたのだ。

その血が、木村をして「まるで真綿に技をかけたようにフワリと受けられ、全然効き目がない。かける技かける技すべて同じ調子で受けられてしまう」と言わしめたのだろう。

 

— 増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(「ゴング格闘技」、2008年6月号)

 

 

30人の憲兵隊の襲撃を1人で返り討ち

・ある日の夕方、ふらりと練兵場を歩いていると、何か身の回りがおかしい。ははア、こりゃ何かあるなと…思っていると、不意にそこここの草むらや窪地からわッと三十名ばかり躍り出てきた。ぐるッとわしを取り囲み、手に手に木刀や木銃をふりかざし打って掛かってきた。ところがこっちは不意打ちはもう昔から慣れっこなんで、屁とも思わない。四方八方から襲ってくるのをヒラリヒラリ体(たい)をかわし、チョイチョイと突ついてやると、面白いように転がる。木刀とか木銃はけっこう重いから、むやみに振り回せばその分だけエネルギーが消耗されてしまうのは理の当然である。(中略)ものの五、六分でみんな息切れして戦意を喪失してしまった。

 

— 『植芝盛平伝』240-241頁。

 

 

プロボクサーピストン堀口さんのパンチをつかむ

 

・戦前プロボクサーのピストン堀口さんが植芝道場に習いに来ました。

堀口さんが打ったストレートが伸び切った瞬間、先生は拳を鷲掴み、引っ張り込んで下から顎をしゃくり上げ投げ飛ばしました。

畳から身を起こしながら、堀口さんは目を丸くして驚いて居ました。

 

引用:塩田剛三『合気道修業』59p

 

 

 

バットで木刀を叩いて跳ね飛ばされる

・僕(荒川博さん 王貞治を育てたプロ野球コーチ)は先生が飛んじゃうんじゃないかと心配しながら、木刀でバーンとバッティングの要領でひっぱたいたら、僕のほうが植芝翁の右前方へ前のめりになった。「こらいけねえ」と思って思い切ってもう一度バーンとひっぱたいたら、今度は僕が吹っ飛んじゃったよ。僕がバットを振ったとたんに、なんか木刀がくっついたかなと思っているうちにどーんと向こうに持って行かれちゃった。もう信じられないよ(笑)。ちょうど鉄棒をひっぱたいてんのと一緒だろうな。だから振った分、僕の力の分だけ飛んでっちゃったわけだよね。(中略)それが先生が76~77歳の時だよな。そういう話がいくらでもあるわけよ。たとえば、「荒川君、おいで」っていうから行ったら、頭をひゅっと触られてぐじゃって潰れちゃったこともある。

 

— 荒川博インタビュー 『季刊合気ニュース NO.142』32頁

 

 

超人伝説

植芝盛平開祖には武道の驚異的な「強さ」に関する伝説がたくさん残っています。

 

しかし、それと同じくらい超人じみた能力(もはや超能力)に関する伝説もたくさんあります。

 

人の心が読めたり、牛若丸を呼び出したり、黄金体になったり

 

常人の域をはるかに来れています。

 

 

合気道をしたら、このような能力がつくのか?

開祖が生まれ持った能力なのか?

宗教的な力なのか?(植芝開祖は大本教を信仰されていました。)

 

 

絵本の中から牛若丸が出てきて、薙刀を教わりマスター

 

・塩田剛三先生「花柳寿美女史が薙刀の舞をやるというので指導を先生に頼んだのですが、先生は余り薙刀はご存知ない。

それで私に『牛若丸の絵本を買って来い』と言って、その本を神棚に立てて誰も入るな言う。

翌日寝室から出て来て『塩田さん、もう憶えたよ』と

 

この後、開祖は見事に薙刀の指導をされたそうです。

いわく、牛若丸が出てきて、薙刀を教わったそうです。

 

ムムム、牛若丸を絵本から召喚してしまう開祖、すごい。

悪魔くんもびっくり・・・エロイムエッサイム

 

しかし、牛若丸って薙刀でしたっけ?

薙刀は弁慶じゃ💦

 

 

居眠り中も隙がない

 

先生はいつも鉄扇を持ち歩いています。なんでも武田惣角先生からいただいたものなのだそうです。

汽車に乗ると、先生がその鉄扇を私に預けて、こう言うのです。

「ワシに隙があったら、いつでもこれで殴ってきなはれ。もし殴れたら、あんたに十段をやろう」

 

そして、お年寄りらしく、座席の上に正座して、そのまま眠りこんでしまいました。寝息をうかがっていますと、本当に先生は眠っているようです。

 

しめしめ、と私は思いました。今ならいくら先生でも気づかないでしょう。いつでも殴っていいと言われたのだから、眠っていても関係ないはずです。

 

これで十段はもらった、と思って私が今まさに鉄扇を打ちこもうとしたとき、先生がカッと目を開きました。私はビックリして、ピタリと動きが止まってしまいました。先生は微笑みながら、

 

「今、夢の中に神さんが現れてな、塩田が叩くぞ、塩田が叩くぞ、と教えてくださったんじゃ」

 

そんなことを言ってまた眠りにつくのです。私は何度かやってみましたが、やはりどんなときでも先生は気づくのです。本当に不思議だと思いました。

 

 引用:合気道修行 塩田剛三著

 

 

寝ながら、障子を這う虫の位置を正確に言い当てる

 

・米川茂美「夜真っ暗な中で寝て居られる先生が『障子の何番目の所に虫が這って居るから取れ!』という様な事を言う時が有るのです。障子の何番目という事迄眠って居て分かるというのは、どういう事なのか我々には分かりませんが、非常に不思議だと思うのです」

 

『植芝盛平と合気道』84p

 

 

黄金体と化す

 

・植芝開祖「たしか大正14年の春だったと思う。私が一人で庭を散歩していると、突然天地が動揺して、大地から黄金の気が吹き上がり、私の身体を包むと共に、私自身も黄金体と化したような感じがした。

それと同時に、心身共に軽くなり、小鳥のささやきの意味も分かり、この宇宙を創造された神の心がはっきりと理解できるようになった。

その瞬間、私は「武道の根元は、神の愛-万有愛護の精神-である」と悟り得て、法悦の涙がとめどなく頬を流れた。

その時以来私は、この地球全体が我が家、日月星辰はことごとく我が物と感じるようになり、眼前の地位や、名誉や、財宝は勿論のこと、強くなろうという執着も一切無くなった。

「合気」という名は昔からあるが、「合」は「愛」に通じるので、私は自分の会得した独特の道を「合気道」と呼ぶことにした。」

 

 

お茶目伝説

 

今までの逸話を呼んでいると、人間離れしすぎていて、もはや「神」の領域に踏み込んで存在に思えるのです。

 

意外にも茶目な一面もあったようです。

 

ここでは開祖に親近感を感じる伝説をいくつか紹介します。

 

このギャップが開祖のきっと魅力なんでしょうね。

 

 

シャワーが熱くて、もう帰る

田村喜信「ハワイでの第1日目、ワイキキの立派なホテルに泊めて頂いたのですが次の朝、大先生は『もう帰る』と仰る。シャワーの調整が出来ていなくて、頭から熱いお湯をかぶってしまったのが原因らしい。

いやぁ、困りました」

 

昭和36年ハワイ合気会訪問。『植芝盛平と合気道2』182p

 

 

子供クラスに反対していたのに・・・

藤平光一「最初は子供クラスに反対していた植芝先生も、楽しそうに一所懸命子供達に教え始めた。その内自分の財布を出して事務員に飴を買って来させ、子供達に一つずつ分け与えた。その上お母さん方に見せたかったのか、普段やらない様な技まで披露し、すっかり上機嫌だった」

 

『氣の確立』92p

 

 

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